リトアニアの歴史 その2

  • 2019年11月12日
  • 2022年5月11日
  • 歌と歴史
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Labas rytas!

おはようございます。リトアリズム運営者の佐久間です。

今回も前回の続きから、リトアニアの歴史についてさらっていきましょう。

時は19世紀後半、人々が民族について意識するようになった時代です。

1914年、第一次世界大戦が勃発。世界中を巻き込んだ大戦となります。力を持つ国がどんどん勢力を拡大するため、バルト三国のように立場の弱い小さい国は強い国に協力するか、支配されるかになってしまうため、強制的にたくさんの国が戦争に参加することになります。

また技術の進歩した国では、その技術を大量殺戮の兵器をつくることに使い、戦争の被害規模はこれまでないほどに拡大していきました。

大戦中以降、ロシアでは革命が起こります。

1917年2月、11月の革命により、帝政ロシアはぶっ潰され、ロシアからソビエト社会主義共和国連邦へと変わりました。このタイミングで、リトアニアをはじめとするバルト三国を国家独立を果たします。(1918年)

リトアニアの人々は、自分たちの国を持つことができました。独立をしてからは自分たちの文化、アイデンティティを確立する活動を、国家体制を整える政策と並行して、これまで以上により力を入れて行うようになります。

 独立運動の時から行われていたリトアニアの文化的な活動は、多くのものを人々にもたらしました。リトアニアの民謡曲集や民話集などが出版され、国歌も誕生。特にリトアニアの民族的な活動、主に音楽と美術の分野で活躍していたチュルリョーニスはリトアニアの文化を代表とする芸術家として伝えられています。

(第一回目の歌の祭典は1924年独立期にカウナスで開催されました。)

しかし、独立国家としての時間はそう長くは続きませんでした。

1933年、ドイツではヒトラー率いるナチスが独裁政治を開始。1939年ドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約を締結されます。天敵と言われていたドイツとソ連が手を組む事は世界に衝撃を与えます。

 この時、条約と同時に秘密議定書が締結されており、その内容にはソ連によるバルト三国併合が含まれていました。

この秘密議定書の存在が、イギリスとフランスによるドイツへの宣戦布告を招き、第二次世界大戦を引き起こします。

また、

1940年、ソ連軍はバルト三国に侵攻。圧倒的な力の差に再び他国の支配下となります。

リトアニア政府は崩壊し、閣僚、知識階級を中心に社会的に活動していたエリートはじめ、一般市民のシベリア追放や大量虐殺が行われた。

大戦が終了したのち、リトアニアを含むバルト三国はソ連の構成国として悲しい時代を過ごします。人々は文化的な活動は制限され、少しでも怪しまれたら何をされるかわからない不安の中生きていきます。

時は少し進み1972年5月、リトアニアにおいて重大な事件が発生します。

カウナスの広場でロマス・カランタ(19)が、ソ連の全体主義社会への反対意思の表明として、焼身自殺をしました。

この事件をきっかけとなり、リトアニアの人々はソ連政府に対する反対運動へと進んでいきます。

このころ経済はほとんど破綻寸前で、人々は行き場のない不満を抱えていました。

1988年春、知識階級にリードされ、政治社会と民族自決の拡大を目指す大衆運動サユーディスが誕生します。(ほかのバルト2国の人民戦線と合わせて生まれました。)同じ意思を共有する団体はこのサユーディスに登録し、活動を活発化させていきます。

歴史に残る運動を行なっていきます。代表的なものとして

1989年 8月23日「バルトの道」が挙げられます。

エストニアのタリンからリトアニアのヴィリニュスまでの約600kmを人間の鎖で繋ぐ運動。世界にバルトの人々の存在をアピールするきっかけとなります。

(同じ年の11月、ベルリンの壁が崩壊 )

1990年3月 リトアニア独立を宣言

サユーディスのメンバーでもあったヴィータウタス・ランズベルギスが最高議長に就任します。

ソ連から経済封鎖されたり、非武装の民間人を殺害される事件が起こるが、リトアニアの人々はあくまで非武装での運動を続け

1991年8月にはりとあにあの独立が国際的に認められ、9月6日にはソ連政府からも独立が認められます。よって世界地図にバルトの国々が復活したのです。

1940-1990年の50年間、リトアニアをはじめバルトの国々の人々は苦しい時代を生きていました。

恐怖のどん底から人々を再び国家独立へとかきたてたのは、人々のそれぞれの国の誇り、そして歌があったといいます。人々の中で受け継がれて、歌を歌うことで誇りを持ち続けることができたのだと言います。

独立運動を行う時、ソ連政府からテレビ塔や国会議事堂を守る時、人々は歌を歌い、自分たちの意思の強さを実感し、発信していました。歌を伴う革命として、バルト三国の独立運動は伝えられているのです。

こうした歴史を踏まえ、リトアニアの歌とともに生きる人々の軌跡を辿ることが、このリトアリズムの真髄です。

お待たせしました。次から本サイトの本題です。

お楽しみに!viso gero!



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