リトアニア の歴史 その1

  • 2019年11月6日
  • 2022年5月11日
  • 歌と歴史
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Laba diena!

Lithuarhythm〜リトアリズム運営者の佐久間です(^ ^)

さあ、これまで少しずつリトアニア についてお話ししていきましたが、今日はリトアニアの歴史について簡単にお話をしていきたいと思います。

少し詳しい方なら、

「もとソ連の国でしょう?」と思うかもしれませんね。

世界史が好きな方の中には

「東欧の国で中世の時はイケイケだった国でしょう?」

とおっしゃる方がいるかも。もちろん。どちらの正解です。

日本では、リトアニアと聞くと杉原千畝(スギハラ チウネ)元外交官についてが最も有名かもしれません。第二次世界大戦直前、当時リトアニアのカウナスの領事館にいた杉原千畝は、ユダヤ人のためにビザを発行し、6000人もの人々を救いました。

 このブログはリトアニアの合唱文化についてがメインとなります。その歴史の中核となる歌の祭典についての話は19世紀以降から始まるため、本ブログで取り上げる時代は19-20世紀ですが、どのような国の成り立ちなのかを知っておくとお話がスムーズになってきますので(また知れば知っておくだけ面白い)、ここではリトアニアの歴史を二回に分けてざっとさらっていきますよ^_^

 リトアニア人の祖先にあたる民族は、およそ2万年前からリトアニアの地で生活をしていました。基本地方豪族による半封建組織のもとに人々は森を伐採して農業を行なっていました。

 13世紀チュートン騎士団による侵攻により、平和な暮らしが崩壊。騎士団に対抗するためリトアニアの人々は一致団結。リトアニア 大公国という国をつくっちゃいました。

 彼らは何度も騎士団を退けるも、その後はチュートン騎士団だけでなく、モスクワ帝国、スウェーデンなどの当時ブイブイいっていた国々に狙われるようになります。そのためリトアニア大公国はお隣のポーランドと協力し戦いに臨みました。1569年、ポーランドとリトアニア大公国は同盟関係を結び、連邦国家となります。このころ、リトアニアとポーランドの連邦国は次々と領土を拡大し、東ヨーロッパでは最大の国として君臨してました(旧勢力は排除せずに婿入りさせて領土を獲得し、支配してました。)。

 18世紀後半、3度にわたるポーランド分割が起こり、ポーランドは崩壊。リトアニアは女帝エカテリーナ2世が治めるロシア帝国の支配下となります。このころのリトアニアは、文化的な習慣、国の体制はポーランド頼み、ポーランドかぶれであったため、ポーランドが分割されてしまったこの時、リトアニアは国として大きくはあっても、中身は古い考え方の空っぽのままでした。エカテリーナ二世はお節介ながら「なんとかしてあげなくっちゃ!」と言わんばかりにバルト三国の革命をしていきます。どんどん新しいことを取り入れて国づくりが進められていきました。あくまでロシア帝国の一部として……。

 このころイギリスでは産業革命など技術の進歩で国の力がどんどん変わっていった時代。遅れをとっていては生き残れない時代でした。(ちなみに日本も明治維新が起こり、大変革の時代でした。)世界中時代が大きく動いた時期。このころヨーロッパの国々である動きが出てきます。民族自決。自分たちの民族の国を持とうという動きが活発になっていきます。

 1905年、リトアニアをはじめとする国を支配していたロシアは、日本との日露戦争で敗れ力が弱まったこともあり、この動きは国家独立へと進んでいきます。

 この民族自決から始まる独立運動で、リトアニアでは民族としてのアイデンティティとは何かが人々によって考えられ、数々の活動が行われました。

 

今回は短いですが、今日はここまで。続きのリトアニアの歴史の話、後半は次回です。

Labanakt!



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