リトアニアの歴史 国歌誕生物語

Laba diena! リトアリズムへようこそ。

このサイトは音楽、合唱という分野からリトアニアという国を見ていきます。

先のブログでリトアニアの基本的な歴史を概観しました。

リトアニアはこれまで1991年の2回目の独立を果たすまで、近隣の国々(ロシア、ソ連周辺の国々)の争いに巻き込まれていきました。人々の中でリトアニア人としての誇りは文化によって育まれていました。その重要なポイントは主に以下の2つであると筆者は考えています。

・リトアニア語による民族主義を訴える雑誌の刊行

・リトアニア語による詩、歌の誕生

リトアニアはリトアニア独自の言語があります。インドヨーロッパ語族バルト語派に属するリトアニア語で、お隣のライトヴィアのラトヴィア語とは兄弟関係の言語で(ぱっと見よく似ていますが、お互いに意思疎通ができるわけではないのだとか)リトアニアの庶民の言葉として残っていたのがリトアニア語でした。リトアニア語はリトアニアの民族を象徴する言語としてとても重要な役割をもつようになります。

当時学のあるエリートたちは東プロイセンの支援を受け、リトアニア人による自治を唄う定期刊行物「アシュラ Aušra(暁)」を発行します(1883年)。これはプロイセンで印刷されたリトアニア人向けの月刊誌です。当時リトアニアを支配していたロシア帝国においてリトアニア語で書かれた書物等の出版は禁止されていたため、完全なる闇出版です。

※初代編集者の Jonas Basanavičius ヨナス・バサナヴィチュス はリトアニアの民族の父と言われています。

このAušraはわずか40版たらず、また各版1000部かぎりの出版にももかかわらず、非常に大きな影響をもたらしました。Aušraの登場によりリトアニアの民族運動が活発化、多くの支持者を誕生させることになりました。

財政難のために、Aušraは刊行をやめてしまうが、人々にリトアニア人であるという民族意識がめばえたことにより、リトアニアの民族性、文化についてリトアニア語で書かれた出版物が現れ、リトアニアの独立運動はさらに活発化していきます。

1898年、医師のVincas Kudirka ヴィンツァス・クディルカによって、「Tautiška giesmė(国民賛歌)」が作詞、作曲されます。彼は94年まで町医者として活躍していたが結核を患い、亡くなる一年前にこの作品を作りました。クディルカはリトアニア語で書かれた「アシュラ」などの新聞、雑誌を読み、リトアニア人としての自覚が芽生え、「国民賛歌」の作詞、作曲にいたったといいます。1918年の独立をする際にリトアニアの国歌として選ばれ、この時代以降から現在までリトアニアにおいて最も重要な歌の一つとなります。


 Vincas Kudirka

民族独自の言葉を使った新聞という当時としては最大のメディアを通じて、リトアニアの人々は共同体を形成していったと考えられます。同じ言葉を使い境遇を同じくする仲間意識は、会ったことのない、しかし同じ運命をともにする仲間となるのです。こうして見えない繋がりで築き上げられたリトアニア人としての共同体意識は、言葉をともなう歌によってさらに強く、深くなっていくのです。



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